合理的な生き方に自分らしさは存在しない(※お知らせ有り)

こんにちは。okamotoです。

あ、そういえば、帰国しましたw

前回は台湾から「自責思考を採用することで成功することから逃げている」という内容をお届けしました。

LINEやXで感想を送ってくれた方々ありがとうございました。

好評なので読んでいない方は、まずはこちらを一読してみてください↓

自責思考をやめれば「そうだ!明日、臺灣に行こう!」が実践できる

2024年5月21日

台湾では、タイに移住中の友人がベトナムのダナンに行くついでに会いに来てくれるという嬉しいサプライズがありました。

地理が苦手な僕でも分かりますが、 “ついで” になっていませんよねw

「台湾に行こう」と思った次の日に飛行機に乗り、まだまだ若い頃のノリを持っていることに満足していた僕ですが、それ以上のフットワークの軽さを見せつけられましたw

もはや、ベトナムを飛び越えてしまってますやん!wと。

ただ、

『人生の醍醐味は非合理性の中にある。』

弾丸台湾ノマド旅自体がそれだったつもりですが、サプライズ的に醍醐味を上乗せしてもらう形となりました。

(前回の記事ではノリと勢いが人生の予定調和をぶっ壊し、人生を好転させていくという話をしたところですが、ちょうどその方は新サービスをリリースしたところで、ノリと勢いに見合った成果を出していたので、やっぱり現状の外側に出続けることの大切さを改めて実感することもできました。)

 

自分らしさを見失いやすい時代

その一方で、今は合理的な世の中であるから、「自分らしさ」や「自分らしい生き方」「アイデンティティ」「オリジナリティ」に悩みやすくなってますよね。

SNSやYouTubeを見れば、ありとあらゆる発信や投稿があり過ぎるがゆえに、

何かをしようと思うと、

「●●さんのマネみたいになるなぁ。」

「●●という発信者がすでにやっていたしなぁ。」

と、誰かしらの顔や名前が思い浮かぶようになっています。

自分らしさやオリジナリティを感じることができず、いまいち乗り切れない。

わざわざ自分がそれをする必要がないんじゃないかと思えてくる。

本来、自分の人生を歩んでいたはずなのに、

すぐに “誰かみたい” と思えるようになってしまっているんです。

 

もちろん、発信者が増え、情報が増え、選択肢が増えたこと自体は良いことです。

僕が住んでた田舎では、まず情報がなく、そして選択肢もないから。

自分の世界を広げてくれるネットの情報というのは有り難いものです。

でもその一方で、必要以上に誰かがすでにやっていることを目にする機会が増えました。

例えばアメリカ横断の旅をしようと思えば、

「そういえば、●●大学に進学したAくんが去年やってたなぁ。」
「Bくんも数年前にやってたわ。」

と、一昔前なら目にすることのなかった情報がSNSから入ってきます。

ほかにも「●●というYouTuberがやってたよ!」と、赤の他人の情報までも知り合いかのように入ってきます。

「そりゃ、誰かしらはやってるやろ!」

という前提は今も昔も変わらないはずなのに。

 

今まではせいぜい、「自分の知り合いにもやってた人おった気がするわぁ」程度だったものが、SNSのせいで疎遠になった友人の顔や身近に感じるYouTuberの名前が何人も出てくるような状況になっているわけです。

何をやっても目新しさがない。

そんな状況。

 

本来、誰かがやっているかどうかなんて関係ないはずなのに、あまりに “情報” に触れまくってしまうことで、まるで面白くないことをやるかのような感覚を抱いてしまう。

ほかにも海外や旅系の発信を見ていると、

日本との比較にうんざりしたり、
訪問外国数でマウンティングを取られている気がしたり、

なんとなくやるせなさを感じることもありますよね。

本当はそんなの1ミリも気にせず、海外に行ってしまえば楽しいもんやのに。

 

合理性や効率的の中に自分らしさは存在しない

自分らしさが分からなくなると、今の社会では「合理的な判断をすることが正義である」という風に思えてくるようになっています。

大学生が投資商品に興味を持つ、みたいな。

まぁこれが合理的に正しい判断かどうかの議論はここではしませんがw

でも、ここで確認しておきたいことは、

合理性の中には自分らしさは存在しない

ということ。

というのも、合理的な行動と自分らしい行動は定義が真逆だから。

 

合理性は論理的であることやムダがなく効率的であることに対し、

自分らしさは、時間や労力がかかろうとやりたいと思えること。

 

旅とか、球技とか、言語学習とか、読書とか、映画鑑賞とか。

行動自体に重なる行為はあれど、そもそもの考え方がまったく違うものです。

たとえば、合理性だけを求めるのであれば、

旅など行かずにVRを付けて映像を見ればいいし、

球技などせずに健康のために有酸素運動をすればいいし、

英語など学ばずに通訳を雇ったり、アプリを使えばいい。

でも、旅もやるし、球技もやるし、英語も学ぶ。

それはその “過程” 自体も楽しいから、なわけです。

合理性が何かしらの成果(っぽいもの)を目的としているなら、自分らしさとは過程にも価値を感じるものです。

であるにも関わらず、人生に自分らしさが見いだせないからと言って、自分らしさを合理的に探しにいっても、そりゃ見つからないよね、ということなんです。

 

非合理性の中に自分らしさが存在する

先ほども話しましたが、「自分らしさ」と「合理性」というのは本来相反するものです。

合理性を度外視してしまう行動にこそ、自分らしさが存在する。

たしかに巷は空前絶後の合理性ブームです。

やれ生産性!
やれ効率化!
やれ能率的!
やれ効果的!

まぁこれ自体はええんですけどねw

ですが、なぜ合理性や効率性が大事なのかというと、人生における “自分らしい時間や行動を増やすため” であるということを忘れてしまってはいけません。

目的と手段が逆転してしまっているのが今の資本主義社会です。
(※ちなみに、この話は明日、LINE限定記事で深堀りするのでお楽しみに!)

 

ということを考えると、自分らしく生きる上で必須となる「習慣」も2種類あるということに気づきます。

「自分らしい理想に近づくための習慣」と「自分らしい人生を増やすために健康や能率を上げるための習慣」。

前者が、海外旅、言語学習、球技なのに対して、
後者は、瞑想、冷水シャワー、有酸素運動、外部化。

ざっくりとはこんな感じになるかと思います。

もちろん、人によっては言語学習が後者になることもあるし、有酸素運動が前者になることもあります。

それは自分の目的や自分らしさによるわけです。

 

で、話を合理性や生産性に戻すと、例えば自分らしく生きるには少なからずお金が必要です。

もちろん、自分らしく働くという視点は大事ですが、すべての作業において自分らしさを感じるわけではありません。

俯瞰して全体をみれば、その仕事というのは自分らしいものであるけど、その中で時間を短縮できるところは短縮した方がよい。だって、その余った時間で自分らしい振る舞いができるのだから。

だから、効率とか能率、生産性が重要になるわけです。

 

それに、人生レベルで考えたときに「自分らしさを感じるのは仕事以外やわ。」というのがほとんどなはずです。

僕も今はこうして、海外に行ったり、言語を学んだり、運動をしたりしているわけですが、これらが仕事に繋がっている一方で、

「100%仕事なのか?」
「すべてがお金のための行動なのか?」
と言うと、そういうわけではないわけです。

仕事か、仕事じゃないか関係なく、

「自分の人生、こう歩みたい」という前提に基づいて行動しているだけです。

 

「自分らしさ」と「仕事の業務」が100%リンクしているわけではないから、そりゃモチベーションを維持するために工夫したり、効率的かつ効果的に収益を上げたりして、自分らしい行動ができる時間を増やした方が良いよね。

だから合理性って大事だよね?

というのが本来の順番です。

非合理的なもののために合理性を利用するんです。

海外に移動したり、外国語や異文化に触れたりすることは非合理的な行動です。

でも、個人的に自分の人生にそれらがないなら、生きていても意味ないと感じるから。そのためには “時間的余裕” は必要不可欠です。

だから、そのために効率や能率は大切にしています。

そしてあなたにも非合理的な大事なことってあると思います。そのために能率とか効率が大切なのであって、能率や効率自体が目的にはなりえないってことです。

しかも、能率や効率の中に自分らしさは存在しないという罠もあるわけで。

能率や効率を上げて自分らしさを見つける活動を増やす、とかならOKですが、ただ効率を求めるのは危険です。

だって、今の資本主義社会において一番効率的な方法は自我を消すことだし、コスパということを考えると今すぐ人生を終えることが最強なんですから。

 

自分らしさに迷ったら非合理的な判断を取り入れる

だから自分らしさに迷い始めたときは、

自分が合理的な行動ばかりを取るようになっていないか?を確認してみてください。

もしくは、意思決定の判断基準が合理性だけになっていないか?

繰り返しにはなりますが、合理性の中には自分らしさは存在しません。

僕のクライアントさんにも、非合理的に思える行動を取るようにしてもらっています。

というのも、その非合理性があなたを現状維持の外側に連れ出してくれるだけでなく、非合理的な行動や経験があなたの魅力になるからです。

もちろん、ビジネス構築の論理やライフスタイルを確立する方法には合理性が存在します。

でも、合理的に考えて非合理的になった方がいい場合もあるということ。

だから、画像のようなパクチーも食べた方が良いときもあるということですねw

ということで、合理性がフィーチャーされている昨今だけど、本来、人生は非合理的であるものであって、非合理性の中に人生の醍醐味があり、自分らしさが存在する、というお話でした。

 

P. S. お知らせです!

2日後、新noteをリリースします。

約3年ぶりです。

お楽しみに。

 

ちなみに、明日はもっと過激に「目的と手段が逆転している今の資本主義社会」について深ぼるので、okamoto公式LINE限定で配信したいと思います。

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では、また明日!

 

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人生の負け犬だった僕は、毎月300万円を売り上げてノマドになりました。

「仕事は我慢」
「いかに感情を押し殺すかのゲーム」
「月曜から金曜まで早く過ぎろと思って生きる」
「しょうもない時間を過ごす対価が給料」
「お金は人生を切り売りして稼ぐもの」
「憧れのライフスタイルは諦めなければいけない」

超保守的かつビビリの僕は、

 “他人の価値観” を上手く体現することが人生だと思っていました。

しかし、それは全くの間違いでした。

 

人生は単なる『選択』でしかなく、

思ってたよりも5,000倍は自由でした。

それでも会社員のままじゃ自由を享受できないし、理想のライフスタイルも実現できない。

だって、経済的に自立するだけでなく、

時間を生み出し、生きる場所を自由化するためには、

 “自分自身のビジネスシステム” を持つ必要があるからです。

 

そう気づけたおかげで、

今ではこうしてノマドライフが送ることができています。

もちろん、特に才能があったわけではありません。

むしろ文才は悲しいほどありませんでしたw

(ここだけの話、国語の成績は高校でブービー)

それでもノマドになれたのは目的に合った手段を常に選択してきたからです。

 

だからどんな人でも “適切な選択” と “正しい努力” さえ実践すれば、

経済的自立・場所の自由・時間の余裕を獲得できると確信しています。

僕がノマドになるまでの軌跡と行動理念は、下の記事に書きました。

5分で読めるのでぜひ読んでください↓

→ ただの大学生だった僕が、全くのゼロから経済的に自立し、場所も時間も自由なノマドになった軌跡