もはや隅付き括弧の中の方が長いというタイトルになりましたが、
この記事では本当に大事なことを書きたいと思ったので、
SEOもコピーライティングも全て度外視して書いていきます。
いつもみたいにチョケたり、ユーモアたっぷりにも書きませんがw
ちゃんと最後まで読んでみてくださいね。
ということで、
「人生、酷されすぎて、糞詰まってます!」
「理想的な人生とは、まったく違う道を進んでしまってます!」
という対処法として、現状から抜け出す手段を紹介します。
そもそも、
行動できないとか、
自分に自信が持てないとか、
何をすべきか分からないとか、
結局、
『見えている世界が狭すぎる問題』でしかない
というのが僕の答えです。
物理的にも、精神的にも視野が狭すぎる、視界が悪すぎるということですね。
「そりゃ、そんなモヤがかかった状態で進むのは怖すぎるやろ!」
という話です。
言うならば『人生の視野狭窄』状態になっているわけで。
(医学用語を使うことで薬学部出身というアピールをさらっとしていますが、もちろん眼病のことなんて1ミリも分かりませんw)
で、結局のところ、
「人生の自分の視野が狭くなったり、視界が悪くなったりするのはなぜか?」
ってことですが、
それは『スコトーマがあるから』というシンプルな理由です。
ストコーマは「盲点」という意味です。
盲点は “目の網膜上の視神経が束となり集まっている点” のことで、
そこに写った映像は目に見えず、たとえ目の前にあったとしても認識できないというものです。
少し理系チックな話になりましたが、
目(網膜)には認識できない部分があるんだな、と思って貰えればOKですが、
まぁ、不思議ですよね。
僕らの眼は、目の前の景色をそのまま映し出し、ありのままに見ているわけではないということです。
そして、ここからが本題ですが、
ストコーマ(盲点)は、
目に見えるかどうかという “物理的” な意味だけでなく、
自分が認識できるかどうかという “心理的” な意味でも発生します。
つまり、僕たちが認識している世界や思考には、見えない部分、考えることができない部分があるということです。
めっちゃ簡単なところで言うと、
同じ条件を与えられているはずなのに、問題が解ける人と解けない人がいますよね。
乱暴な解説をすると、
「あれは与えられた条件で見える世界、認識できる情報が違うから」
と言うことができます。
まぁここでは、「思考レベルでストコーマが存在するんだな」と思ってください。
ちなみに、テスト中に解けなかった問題の解説を聞いて、
「なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろ?」
と、不思議に感じたことってありますよね?
過去の自分を疑うレベルのやつもあるはずです。
それっていうのが、
解答までの道筋がまさしく盲点になっていたということです。
そして、このストコーマの影響ですが、
学校の問題を解くことだけに及ぶというわけではありません。
人生の選択や可能性においてもモロに影響を与えます。
同じ状況に置かれても、
「結果を出す人間」と「結果を出さない人間」がいますよね。
これは人により見えている世界が違うからです。
「チャンスや!」と思う人もいれば、「ピンチや!」と思う人もいる。
それっていうのは、
結果が出せない人は、基本的に選択肢がなく、思考を制限して考えてしまってるからです。
無意識に思考にスコトーマが発生しており、視野が狭い状態になっているということです。
もちろんストコーマを全く消すことは不可能ですが、
少なくとも結果を出す人の方が視野が開けている、視界が良好ということです。
例えば、これは本当に些細なことでもいます。
日頃、勉強しない学生がテスト勉強を開始すると、
まずは机の上の片付けや部屋の掃除から始めたりしませんか?
よく考えてみると、
もうこの段階でテストで良い点数が取れない人の選択をしてしまっていますよね?w
ちゃんとテストで良い点数を取るというゴールを持っている生徒は、「部屋や机を片付ける」という選択肢は見えません。
普段から勉強しているから、
・勉強するまでの自分の行動の導線
・テストで高得点を取るまでの道筋
・時間の使い方ややるべきこと
それらが見えている、認識出ているから、テスト前に机や部屋を片付けるなんて選択肢は見えていないのです。
(ちなみに、無意識にこんな行動ができることを「習慣」と呼びますね)
要するに、
うまくいく人はうまくいく世界が見えていて、
うまくいかない人はうまくいかない世界が見えていまっているんです。
と、ここまでスコトーマの話をしてきましたが、
ひとまず、スコトーマとはどんなものかのイメージは持ってもらえたかと思います。
ここで本題に戻りますが、
スコトーマがあるから人生で糞詰まった時に抜け出すことができないと言うことができるし、
むしろ、スコトーマがガチガチに構成されてしまっているから人生が糞詰まると言うこともできますよね。
簡単な話、糞詰まり人生から抜け出すためには、スコトーマを外して、自分の世界を広げる・見える世界を広げる・認識する世界を広げる・選択肢を増やす・可能性を増やす、こういったことをしていく必要があるわけです。
じゃぁ、どうすればスコトーマを外すことができるのか?
ストコーマを外す手段はいろいろあると思いますが、
1つ、わかりやすいのが「勉強」です。
人間は知らないことは認識できないようになっています。
例えば、戦国時代の10代に「将来、やりたいことは?」と聞いて「宇宙飛行士!」とはならないわけです。
宇宙飛行士になりたいと言う言葉がなかったとしても、
本気で「月に行こうと思っています!」というティーンはいません。
今の時代だと、本気で異世界転生を目指すくらいのことだからです。
知識がないことは認識できません。
だからめっちゃ簡単に言うと、
『勉強(知識)は人生の選択肢を増やしてくれる、認識できる世界を増やしてくれる行為』
ということになるわけです。
勉強や知識でスコトーマが外れる理由(=世界が広がる訳)
では、そもそも、
「なぜ勉強や知識でスコトーマが外れるのか?」
と、疑問に思うかもですが、
結論を言えば、僕は、
新しいゲシュタルトができるから
と考えています。というか、これが答えなはず。
「ゲシュタルト」という変わった言葉ですが、なかには聞き覚えがある人もいると思います。
そう、「ゲシュタルト崩壊」のゲシュタルトですね。
ゲシュタルト崩壊は、
たとえば、小学生の頃に漢字練習帳に同じ漢字ばかりを書いていると、
「なんか変な漢字に見えてくる」
「見たことない漢字に思える」
「なんか気持ち悪い字に感じる」
こんなのが『ゲシュタルト崩壊』です。
とうことで、ゲシュタルト崩壊を起こしてもらいますと、
恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋恋
どうですか?
見つめていると「恋」ってこんな漢字やったっけ?
と思えてきますよね?
これがゲシュタルト崩壊です。
「ゲシュタルト崩壊」は文字通り “ゲシュタルト” が “崩壊” した状態のことを指しますが、
・じゃぁ、ゲシュタルトが何なのか?
・何が崩壊したのか?
ということで、確認すると、
ゲシュタルトとは、
『全体は単なる部分の集まりではなく、個々が相互に作用し合い1つのものとして存在している』
という概念です。
難しく聞こえますが、漢字の場合で考えてみると、
それぞれ、棒や点が集まり、棒や点の関係性が生まれ、全体として1つの漢字を形成することで意味を成していますよね?
「立」と「木」と「見」で「親」(=おや)という意味になり、
単なる部分の集まりではなくなっていますよね?
ゲシュタルト崩壊では、その棒や点の関係性(=ゲシュタルト)が壊れ、全体が崩壊する現象のことです。
頭の中で、漢字における棒や点の関係性が崩れて、ぐちゃぐちゃに感じるということですね。
また、ゲシュタルト関連の話でいくと、
『鋼の錬金術師』という漫画を読んだことはありますか?
(僕が好きな漫画ベスト10に入るので、ぜひとも読んで欲しいですがw)
作中に『一は全、全は一』という言葉が出てきます。
実は、これがゲシュタルトです。
「おれ」という「一」が存在しするから、
「世界」という「全」が存在する。
そして、
「世界」は単なる「個人(おれ)」の集まりではなく「全体」として世界と認識されるものである、
ということです。
これがゲシュタルトの基本的なイメージです。
もう1つわかりやすい例で、「家族」というものを考えてみましょう!
いきなり質問ですが、
「家族って存在しますか?」
答えは「はい」になるかと思います。
では、「家族」って誰(もしくは何)ですか?
例えば、あなたにとっての家族は、「母と父と姉と息子と…、」みたいになるかもしれません。
でも、母や父、息子、娘は家族の一員ですが、
家族という存在そのものを表しているわけではないですよね?
(自分の母は、自分の子供から見たら「おばあちゃん」となり、子供は「孫」になりますし。)
家族は全体として存在しているが、実在はしていない概念です。
つまり、それぞれの関係性があることで家族のゲシュタルトを形成しているというわけです。
このようなゲシュタルトですが、
平たく言うと、
「相互の関係性がある状態」と捉えることができます。
この方が考えやすいですね。
ではでは、
「勉強により新しいゲシュタルトができる」ということでしたが、
「ゲシュタルトを作る(形成する)とは、どういうことなのか?」
しっかりと説明すると、
『低い抽象度でバラバラなものが、抽象度が上がり、1つの整合的なものが出来上がること』をゲシュタルトを形成する
(『圧倒的な価値を創る技術〜ゲシュタルトメーカー〜』苫米地英人著より)
と言います。
いや、どういうことやねんって感じですねwww
たとえば「机」や「椅子」を例にすると、
抽象度の低い「板」や「棒」「釘」は、それだけではただの板や棒に過ぎません。
しかしそれらが抽象度の高い所で整合(統合)されると、「机」や「椅子」という新しいゲシュタルトが形成される。
それは部品同士に新しい関係性が構築されたということになります。
高い抽象度:机、椅子(ゲシュタルトを形成)
低い抽象度:板、棒、釘
この現象は知識にも当てはまります。
つまり、自分の思考そのものでも同じということです。
例えば、
「リンゴは手を離すと落ちる」という事象を知るとします。
そして、
「ペンは手を離すと落ちる」という事象も次に知ったとします。
ここから、
「モノは手を離すと落ちる」
というゲシュタルトが形成できるはず。
(ちなみに、これが『学ぶ』ということですね。)
だから、
ものを下に移動したい時は、「手を離せば良いんだ!」という思考が可能になりますよね?
このように抽象度の高い所でゲシュタルトを形成することで、
視点が高くなり、視野が広がる、物事の認識が変化するのです。
ここまでをまとめると、
『勉強によりスコトーマが外れるのは、勉強によって新しいゲシュタルトを形成され、高い抽象度で物事を認識することが可能になるから』
ということですね。
世界を広げるのは新しいゲシュタルトを作ることでしかない
ここまでは、勉強により新しいゲシュタルトが構築され、高い抽象度で物事を考えること(認識すること)が可能になるから、視野が拓け、ストコーマが外れるというお話でした。
当たり前ですが、
低い平地よりも山頂からの景色からの方が認識できる世界は広いですからね。
物理世界ではイメージしやすいですが、
情報空間的に、思考レベルで認識する世界が違うってどういうことなのか?
先程「モノは手を離すと落ちる」というゲシュタルトの話をしました。
「リンゴは手を離すと落ちる」
「ペンは手を離すと落ちる」
という情報を高い抽象度で捉えることで、
「モノは手を離すと落ちる」
というゲシュタルトが構築できるという話です。
このゲシュタルトがあると、たとえば、
「ものを下に落としたい時、手を離せばいいんだ!」
という思考に至ることができます。
この話を用いて、認識する世界の違いについて考えてみると、
仮定として、
ハイキング中に仲間が崖の下に落ちてしまいました。
幸い、自分の持ち物にロープがあります。
で、質問ですが、
この後、あなたはどうしますか?
そうですね。
ロープを使って仲間を助けようとしますよね。
では、なぜこの思考が思いついたのか?
それは「モノは手を離すと下に落ちる」というゲシュタルトがあなたの中にあったからです。
「モノは手を離すと落ちる」というゲシュタルトがある人は、
ロープの片方の端を手にもち、片方の端を手を離すことで、仲間の元にロープを垂らすことができます。
でも「モノは手を離すと落ちる」というゲシュタルトがない人は、
ロープを仲間の元に垂らすという発想には至らず、仲間を助けることができません。
先程、仮定の文中で、「幸い」という言葉を使いました。
ここでロープを持っているという現実が「幸い」と認識できたのは、
「モノは手を離すと下に落ちる」というゲシュタルトがあなたは持っていて、これを使うと仲間を助けることができると考えたからです。
だから、ロープを持っているという事象が「幸い」に認識できたのです。
ですが、
「モノは手を離すを落ちる」というゲシュタルトを持たない人は、
その人はロープを持っていることを「幸い」とは認識できません。
ただ、細長いものが手元にあるというだけ。
そして、現状を「絶体絶命」と認識します。
ロープで助けるという道筋は、スコトーマにより見えない状態です。
どうでしょうか。
ゲシュタルトがあるのとないのとでは、認識する世界が違うという意味が理解いただけたかと思います。
もちろん、今回の例は極端であり、
非現実なくらい幼稚な内容でした。
しかし、社会でも同じ出来事が起こった時に、
「これはビジネスチャンスだ」
と認識する人もいれば、
「あぁ、人生終わった」
と認識する人もいます。
少なくとも、この2人には見えている世界が違りますし、
起こっていることは持っているゲシュタルトの違いでしかありません。
ロープを「幸い」と見るか、
ただの「細長いもの」をみるか、
です。
現状が「助かった」と思えるか、「絶体絶命」と思えるか、の違いは持っているゲシュタルトです。
復習ですが、
ゲシュタルトを構築するとは、
低い抽象度でバラバラなものが、抽象度が上がり、1つの整合的なものが出来上がることです。
つまり、高い抽象度(視点)で、物事を認識することができるようになるわけです。
そして、自分の認識する世界が変わるというのは、こういうことです。
より全体像が見えるとも言えますね。
元日本代表の遠藤保仁選手が、サッカーIQが高いと言われるのは、
試合中に見ている景色、抽象度が高いから。
高い視点からコート全体、試合全体を見ながら試合をしている、
三次元的に(もしかすると四次元的に)試合を把握している、ということです。
目の前のボールだけを見ていてはパスなんかできませんので。
どういう勉強や学習をすべきなのか?
認識しているようで、認識していない世界があるというのは、
ちょっと怖く感じる部分もありますが、
でも、どっちかと言うと、
ワクワクしませんか?
自分の知らない世界が存在するということは、
まだまだ面白い世界が存在する可能性、
さらにそもそも自分の可能性も広がるということなので、楽しみで仕方ありません!w
たとえ今の人生が糞詰まっていても、希望があるということです。
だって自分にはゲシュタルトがなく、スコトーマがあるだけだから。
今、自分が思っている1000倍くらいの可能性があると思って良い!
そう思って生きる方が元気が出ますしw
で、ここまでを振り返っておくと、
『勉強によりスコトーマが外れるのは、勉強によって新しいゲシュタルトを形成され、高い抽象度で物事を認識することが可能になるから。その結果、自分が認識する世界が広がる』
ということをここまで確認しました。
僕が勉強による獲得するゲシュタルトのイメージは、
世界を通して見るフィルターを身につけることです。
人間は絶対にフィルターを通して認識しているから、
そのフィルターの解像度を上げる作業がゲシュタルトを頭の中に構築すること、
つまり、勉強することがそれっていうことです。
じゃぁ、ここで僕たちはどういう勉強をすべきなのか?
逆にどういう勉強をしてはいけないのか?
ということですが、
答えは簡単です。
ゲシュタルトを形成される勉強をすべきであって、ゲシュタルトが形成されない丸暗記のような勉強はやめるべき
というのが、僕の答えです。
逆に言うと、
『ゲシュタルトを作らなければ、その勉強に意味はない。』
ということです。
ただ、人間は基本的に過去の経験ベースで学んでいく生き物です。
ゲシュタルトのない学習を丸暗記と仮定すると、
人間には「丸暗記なしの勉強はあり得るのか?」と、疑問に思うわけです。
そこで考えてみたいのが、
「モノは手を離すと落ちる」というゲシュタルトの話です。
物理の問題集なみに物を落下させていますがw
「リンゴは手を離すと落ちる」
「ペンは手を離すと落ちる」
例えば、この2つの事象をこのまま覚えて、何も派生させないのが「丸暗記」に当てはまるんじゃないかなと思います。
つまり、「物体は手を話すと落ちる」と派生させない、抽象度を高くできない。
これが丸暗記であって、ゲシュタルトを構築しない学習です。
だって、このゲシュタルトがなければ、
崖に落ちた仲間を助けるのにロープを下に落とす手段が分からない、ということになるということでしたよね。
しかし、「モノは手を離すと落ちる」というゲシュタルトがあれば、
ロープが手元にあると仲間を助ける道筋が見えるのです。
なので、
ゲシュタルトのない学習を「丸暗記」と言っても良さそうですよね。
そして、確かにゲシュタルトを構築しない学習は、柔軟性に欠け、認識できる世界が狭い気がします。
これを英語に置き換えて考えてみると、
“This is a pen.”
という学校で一番最初に習う文章があって、
次に、 “That is a book”を習う。
この2文だけを覚えても、表現できることはありません。
でも、これらの英文からゲシュタルトを作れば、
「thisが主語で、isがbe動詞で、aが冠詞で、a penが補語」
という学習ができ、ここから表現できることの方が明らかに多くなります。
“dog” という単語を学べは、
This is a dog.
という文章を作ることができるからです。
(つまり、英文法って『英文を高い抽象度から捉えたときのゲシュタルト』と言えるわけですね。)
そう考えると、ゲシュタルトとしての英文法を学ぶことで英語の表現が増えていくことと同様に、
全ての知識のゲシュタルトにおいて自分の認識する世界が広がるというのは自然なことですよね?
見える世界や思考が洗練されていくということです。
さて、またまた、
リンゴは手を離すと下に落ちます。
ペンは手を離すと下に落ちます。
という例を考えると、
ここで「モノは手を離すと落ちる」というゲシュタルトを持っていたとして、
ここで子供から下のようなことを言われたら、あなたはどうしますか?
「モノは手を離すと下に落ちると言うけれど、風船は手を話しても下に落ちないよ?」
「お風呂におもちゃを入れると下に落ちないで浮いたよ?」
論破されちゃっていますよねwww
「モノは手を離すと落ちる」というゲシュタルトを持っているだけでは対応できないことが起こってしまっています。
さらに、
「飛行機は鉄の塊だけど浮いているよ?」
「宇宙空間でペンが浮いているのを見たよ?」
などなど、全然対応できないことが発生してきます。
これらに対応するためには
- 空気の密度よりも大きい物体は下に落下する。
- 空気ではなく水になると比較対象は水の密度になる。
- 静止したものを重力によって自由落下する。
- 落ちるのは重力が原因だから重力のない宇宙では落ちずにその場に居続ける。
などの知識(ゲシュタルト)を得ることで対応が可能になり、思考の幅が広がります。
抽象度の高い所でゲシュタルトを形成しているというわけです。
これらのゲシュタルトを持っていれば、
物事をちゃんと把握できる、認識する世界は広く、解像度も高いということです。
少し物理的な話なので、文系の人は苦手に思うかもしれませんが、
言いたいことは、
「落下という現象」と「密度」や「重力」「運動」などの知識が統合されているという点です。
それにより、個々の事象の認識の幅が広がるということ。
(物理が嫌いな人は英文法で考え直してみてください。)
ということで、
そもそも「学ぶ」とは「ゲシュタルトを構築していくこと」なので、
学べば学ぶほど、どんどん知識の関係性が作られていくものです。
密度なんて「重さ÷体積」で求められますが、それだけは何にも使えませんよね?
しかし、密度の大きいものが下にくるという知識(ゲシュタルト)になることで思考の幅が広がるわけです。
大事なのは、『ゲシュタルトを構築することで思考の幅が増えるという感覚』です。
勉強が嫌いな人は、勉強することで世界は窮屈になると感じてしまいがちですが、実は真逆です。
ちゃんと勉強すれば、
ゲシュタルトが大きくなって、
思考の海が広がり、世界は広がる。
ということを実感してもらいたいです。
先の例で言うと、ゲシュタルトが構築されるとロープを下に落とすことが可能になる思考ができるということですね。
そのゲシュタルトがないと、仲間が崖に落ちた状況は絶対絶命になるわけですから。
その他にも、物で水が浮くことだって普通に予想できる範囲なわけで、
そのゲシュタルトがありさえすれば、
例えば、「ビーチで浮き輪を使ってギャルと遊ぶ」という選択肢も生まれてくる. . . 、
かもしれませんw
ゲシュタルトを作ることは世界を広げてくれるということであって、
ゲシュタルトを作ることこそが「学習」と言えるということですね。
もちろん、「りんごは手を離すと落ちる」としか認識せずに思考する世界で良いのであれば、それでいいです。
でも、「モノは手を話すと落ちる」と理解しておけばロープで人を助けることができますし、
さらには、その先は、水にモノを浮かべたり、風船を空中に浮かべる、という世界も存在するということは、可能性でしかありません。
人生で糞づまったとき、
手詰まりになった時、
そんなときこそ自分の世界を広げるということをしてみてください。
もちろん、
「今、絶好調だけど、さらにもっとオレの可能性を広げてやるぜぃ!ヒーハー!」
というのも、大賛成ですし、僕もこれです!w
ということで、今回は、
『人生を広げるには新しいゲシュタルトを作るしかない』というお話でした。
(本記事は過去にLINE@でお送りした内容のリライトです。)