こんにちは。okamotoです。
僕は大学生の頃、 “八剣伝” という大衆居酒屋で朝4時までよく飲んでいました。
意識が高い系(笑)は、
やたらと「自由」を求めがち。
![意識が高い系(笑)は自由を求めがち。](https://okamoto712.com/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif)
そこで、友だちと必ず話すのが、
如何に自分たちが、人生を自由に展開する事を考えているか?
です。
「自由に展開するのか?」
ではなく、
「自由に展開する事を考えているのか?」
という微妙な違いがポイントですねw
幸せなことに大学・大学院まで進学させてもらい、
大学はふつうに勉強が忙しかったのですが、それでも本当に自由気ままな生活を送らせて頂きました。
徹夜もするし、夜釣りもいくし、平日の夜も飲むし、二日酔いで学校も行くしで、
まぁ典型的な大学生だったと思います。
そんな人生の夏休みから、いきなり社会の荒波に投げ出されるわけですが、
大人や社会人にとって「大学」のような、
生活が保証され、単位だけ取れば自分の役割を真っ当していると感じさせてくれる居場所は本当に楽園だったと思えます。
自由と束縛のバランスが絶妙によくできていますよね。
僕は休学も経験していますが、
休学なんて、戻る場所があるという絶対的保証を持っているわけで、
「安心・安全の上で自由を満喫できる最高の場所が大学だ」と個人的には思っています。
しかし、就職を目前にすると、飲み会では、
いかにこれからも自分たちは自由に生きるのか?
という話を肴にすることが多くなりました。
苫米地英人氏の本にハマっていたこともあり、
彼の言葉を使うと、
“いかに自分たちが抽象度の高い思考をしているか”
と、自己陶酔をしながらお酒に飲むが定番となりました。
というのも、
就職活動は本当に面白くなく、
全く知らない会社の説明会を聞きに行ったり、
「私服OK」の説明会に行くと、自分以外みんなスーツだったり、
グループディスカッションでは興味のない議題について話させられたり、
SPIという小学生のようなテスト受けさせられたり、
全く面白さを感じることができませんでした。
「軍事教育の末路か?」と意味不明なことを内心に思いながら、今思っても態度の悪い就活生でしたw
でも、こんな僕でも就職することができ、
大学生の八剣伝に引き続き、
ここからは、
会社を辞めていかにして自由を勝ち取るか?
これだけを生き甲斐とし、社会人生活を送るわけです。
僕のような意識高い (笑) の特徴は、
やたらと『自由』という言葉を口にしますw
そんな “自由中毒” の僕は、
晴れて会社を辞めてノマドワーカーとなるわけですが、
いざ会社を辞め、
「ここからの人生、何をしてもいい!死ぬまで予定ないぜ!」
という状態になってみると、
ワクワクを感じる一方でその奥底には、
「こわっ!」と思ってたんです。
それは目標やゴールがあっても、感覚的な孤独です。
『人間は自由という刑に処せられている』 〜ジャン=ポール・サルトル〜
![『人間は自由という刑に処せられている』 〜ジャン=ポール・サルトル〜](https://okamoto712.com/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif)
今までは、ある限られた枠の中で生活をしてきたわけですが、
その枠がなくなった時に世の中の膨大さを実感したって感じです。
宇宙にポーンと投げ出されたような。
めっちゃ大げさな例えですがw
安心・安全の上に成り立った上で、
単位を取るという役割がある、
大学生という枠。
朝9時に出社し、
与えられた役割をこなし、
毎月25日に給料が貰え、
有給を繋げて旅行にいく計画を立てる
会社という枠。
そんな枠の中で想像する自由って、ただのないものねだりみたいな所がありました。
「おれ、3年で会社を辞めて起業するわ!」と言う多くの新卒が、実際に会社を辞めれないのは、この枠外に出る恐怖を無意識に感じているのかもしれませんね。
ちなみに僕は、枠外に友人がたくさんいたので、
ノリと勢いだけで枠外に出てみた結果、
「うわぁー、本物の自由ってこういうことかー!」
ってなった派です。
自分がビビっていたことに、枠の外に出てから気づいたやつですw
ないものねだりの「自由」は、
やりたくないことから目を背けるための「セルフ・ハンディキャップ」的な言い訳のような役割があります。
大学生の頃の僕は、自由を全く理解していなかったんだなと。
おそらく、頭のいい人は臨場感を持って自由を理解していて、
だから大学生とか若い年齢で成果を出すんでしょうね。
ないものねだりの自由を求めていた僕らは、
実際、自分を不自由にしている “枠” を失う勇気がなかったんだなと実感しました。
いざその枠を取っ払われ、安心・安全もなく、所属名はなくなり、
役割も自分で決めなければいけない状況に追いやられると、
感動と不安感が混ざるわけです。
海洋恐怖症みたいに、「広大な自然で感動する一方で、何かが潜んでいるんじゃないか?」と不安に感じるやつです。
自分の安全策がなくなった事で、自分が自由に動ける代わりに、
自分に危害を加えるやつも入ってこれる不安感って感じです。
この恐怖や不安感を無意識に感じている人もいれば、自覚している人もいるんだろうな。
だから、なかなか一歩を踏み出せない人が多くいるのだとこの段階で気づきましたw
(僕は無自覚だったので…)
なので、
無自覚の人にも、自覚している人にも、
この恐怖や不安感について、
先に感じた感想をお伝えすると、
慣れます。
「ペットショップの犬は山に離すと死んでしまうのか?」問題
![「ペットショップの犬は山に離すと死んでしまうのか?」問題](https://okamoto712.com/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif)
枠はないように思えて、普通に次の枠が現れるんですね。
たとえば、高校生から大学になった時、枠がかなり広がったと感じましたよね?
もしくは就職した時、世界がかなり広がりましたよね?
その時、その時で、枠の大小は普通に変化してきました。
その枠が急激に広がるから一瞬、無限に感じるだけで、
すぐに次の枠を感じるようになるということです。
たとえば、日本という枠であったり、法律という枠だったり、スキルや技術であったり、科学技術の発展など、それぞれの枠の中で思考し始めます。
最初は枠がなくなったと感じますが、
これまでのような「安心・安全のタイプの策」ではないから、
なければ生きていけないと思ってしまいがちなだけです。
温室育ちのペットショップの柴犬を、山に野放しにすると死んでしまう、みたいに考えてしまってるだけです。
実際は、野放しにされた柴犬も野犬としてたくましく生きていくのと同じです。
(実際は知らないですがw)
ただ、山という枠で生き始めるのは事実です。
もしかしたら、その山のボスになるかもしれません。
まぁ、ぶっちゃけ、枠や策がなくなった時に、
安心・安全や居場所よりもなくなっても困るのは「規制」です。
自立するには、自縛して、自律せよ!
枠の中にはたくさんのルールがあります。
出社時間、取得単位、ノルマ、卒業必要単位など、
それぞれの居場所にはそれぞれのルールがあります。
校則や会社規則ですね。
それがノマドになると、
日本の法律だけになりますw
「急に規制が減るやん」って感じるわけです。
朝起きる時間も、自分が達成しなければいけないノルマも自分できめなければいけません。
僕が居酒屋で求めていた『自由』って、とんでもなく『自由』なんやと思いました。
だから、ノマドには、『自律』が必要となります。
よく1人でビジネスする人が言っていることですが、
“自立” するためには “自律” しなければいけない。
所属がなくなると、自分を律するものがなくなります。
まぁそれを僕らは『自由』を呼んでいるのかもしれません。
しかし、律するものなしでは、わりと野生の人間ですw
だから、自立した人間になるために自律が必要になります。
自分のルールを自分で決めるということですね。
自由を求めていたのに、自由の次の段階は自分で自分を縛る『自縛』のステージが待っていたわけですw
大学の時はここまで考えていませんでした。
自由は自縛する必要があるんやとw
ボランティアしに来るヤツが助けられてどないする?
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自縛をする目的は何なのか?という『自力』を付けるためです。
最もわかりやすいのが「稼ぐ力」です。
どんなきれい事を言おうと、
資本主義の社会で、食っていくためにお金は必要ですから。
かつての僕も含め、
嘆くだけの人の特徴は『自力』をつけようとしないことです。
これを意識が高い系 (笑) の2つ目の特徴としましょう!
アフリカに住んでいる友人が言っていたことですが、
日本人がボランティアとか青年団とかでアフリカに来るけど、
「言語くらいやっておけよw」と感じるらしいです。
「日本という温室育ちでは言語以外もできへんのやし。」
「言語もできない、特別なスキルもない、生きていくすべも知らん。」
「そんな日本人がこっちに来たって、逆に助けてもらってますやん!」
この話で、別にボランティアする事自体を否定したいわけではありません。
温室育ちの僕たち日本人は、手助けしたいという気持ちが先行するあまり「自分の能力で何ができるのか?」という視点を忘れがちで、本気で考えるのであれば、真っ先にそこを意識する必要があるんだなと気付かされたということです。
実力がない人は自分を救うこともできないのだから、他人を救うことなんてできるわけがないことを痛感しましたね。
日本という安全・安心の枠の中で生きてきた日本人は、
アフリカという枠外の生活では無能です。
「可愛そうだから」
「何かしてあげたいから」
そんな自己陶酔だけでは何も救えない。
だったら実力を付けるしかない!って話なんです。
これは、ノマドと通じる所があって、
正直、1人で飯を食っていくだけなら大した実力は要りません。
しかし、誰かに貢献したい、特定のジャンルの役に立ちたい、大切な人を養いたい、そう思うのであれば、実力を付けるしかありません。
海外で活躍したいのであれば、もちろん気持ちも大切ですが、実力から目を背けてはいけないということですね。
今の日本で「自由」は簡単に手に入るけど、どうする?
![今の日本じゃ、自由なんか簡単に手に入るけど、どうする?](https://okamoto712.com/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif)
「◯◯だけして、生活したいです」
という相談を受けることがあります。
ビジネス視点はなく、自分の感情だけの相談です。
先程の話と同じで、感情は大切だけど、それだけでは何もならん!ってやつです。
でも、実は、今の日本ならどんな人でもそのような生活が実践可能です!
だって、生活保護を貰って、それをすればいいだけですから。
余裕で、嫌ですよねw
今の日本は自由を簡単に得られます。
自由は手に入れるのは簡単だから、『実力』が死ぬほど大切なんですね。
そして、『実力』は僕がいつも言っているように合目的的でなければいけません。
自分自身のビジネスを確立したいのに、
インフルエンサーの方法論や著名人の精神論を身に付けるだけでは、実は何も構築されていません。
自分自分が達成したいことは何なのかを吟味しなければいけません。
もし現状で自分の達成が難しいのであれば、それを達成するために段階を踏まないといけないのかもしれません。
先述したように、個人で働くと所属がなくなります。
だから、気を抜くと所属欲求を満たしにいったり、承認欲求を満たしにいったりもします。
多くの場合、それらの欲求は、自分のゴール達成とは無関係です。
しかし所属欲求を満たすこの場を失いたくないがために、自己肯定してしまいがちで、実際に僕も経験がありました。
自分のゴールに近づいていると思い込もうとしてしまうんですね。
だから、所属欲求とは別に「自分のビジネス達成の明確な指標」を設けることが大切です。
月30万円
これは僕がいつも言っている、
自分でビジネスを始めるならまず最初の目標とする指標です。
それよりも少なければ、自分の殻をぶち破ることができません。
現状をちょびちょびすすめて、1円を重ねればいつか月30万とか、あわよくば月100万になればいいな、という思考では一生かないません。
1円を積み重ねて1万にして、それをまた積み重ねて100万にするというのはビジネス思考ではありません。
ビジネスはレベレッジを効かせる方法を学び、実践することです。
実際、0円の次の月に70万という人もいます。
それができなくても、小さな実績を引っさげて次の作戦を取るという思考が必要です。
愚直さは大切ですが、愚直さの出しどころを自分が得意な努力に逃げてはいけない、ということです。
ここにきてもやっぱり、
『自分を律する』
自由なノマドだからこそ、本当に大事になってくる言葉です。